中森明菜 自殺未遂。 中森明菜の現在!病気や休業の3つの理由など総まとめ

【動画】近藤真彦はクズ人間?!中森明菜の金屏風会見コメント全文と考察

中森明菜 自殺未遂

芸能人の自殺未遂事件といえば、まず思い出されるのが「中森明菜」さんではないでしょうか。 当時、2年連続で日本レコード大賞を受賞するなど、人気絶頂だったった彼女にいったい何が起こったのでしょうか。 名前:中森明菜(なかもりあきな) 生年月日:1965年7月13日(53歳) 職業:歌手、女優 所属:FAITH(ファイス) レーベル:ユニバーサルミュージック内の私設レーベル歌姫レコーズ 出身地:東京都清瀬市 学歴:明治大学付属中野高等学校定時制(中退) Sponsored Links 1989年の大晦日… 12月31日の午後10時に新高輪プリンスホテルで緊急記者会見が行われました。 中森明菜さんの復帰会見です。 テレビ朝日は大晦日の特番を急きょ変更して生中継しました。 それまでのロングヘアをショートにし、シックなグレーのスーツ姿でイメージチェンジした明菜さんがそこにいたのです。 彼女は200人を超える報道陣を前にして「ご心配をおかけしたことを深くお詫びします」と深々と頭を下げました。 そして、途中からもう一人の渦中の人、近藤真彦さん(当時25歳)も壇上に登りました。 このおよそ半年前の7月11日… 六本木のマンションの自室に帰った近藤さんは、浴室で血まみれで横たわる明菜さん(当時23歳)を発見します。 明菜さんの傷は左肘内側に深さ2センチ、長さ8センチのためらい傷もない深いもので重傷だったのです。 急きょ慈恵医大病院に運ばれ、6時間に及ぶ難手術の結果、明菜さんは命を取り留めました。 明菜さんと近藤さんは、その6年ほど前からお互いの家を行き来しているところが目撃され、結婚秒読みとも噂されていました。 では、なぜ自殺未遂をしたのか? そこには結婚願望が強かった明菜さんと、結婚は30歳過ぎてからという近藤さんとの間に結婚に温度差があったと言われています。 さらに、その年の2月に近藤さんが「フライデー」に松田聖子さんとニューヨークでの密会をスクープされる騒動もありました。 これらのことが自殺の引き金になったのではないかと噂されたのです。 さて、この時、会見で2人はお互いをどう語ったのか? 明菜さんは自殺未遂に及んだ理由を仕事上の人間関係が原因としながらも、現場に近藤さん宅を選んだことについて「自分が一番信頼できたたった一人の人だったから」と答え、「一番最初に見つけて欲しかった」からと切々と訴えたのです。 近藤さんにも「一番大切な人を傷つけてしまった」と深く謝罪しました。 これに対して近藤さんはというと、「(明菜さんの復帰の)お手伝いが少しでもできたことに、すごく喜びを感じています」と優等生的な受け答えで、リポーターの「結婚は?」の質問に対しては「そういうことはまったくありほせん」とにべもなかったのです。 その後の2人ですが、復帰した明菜さんは早くも1990年に「Dear Friend」、「水に挿した花」とヒットを飛ばしました。 一方、近藤さんはカーレースで話題は提供しましたが、本業ではパッとしない状態が10年近く続いたのです。 しかし、明菜さんがどうにかなったのは、そこまで… 相次ぐ事務所とのトラブルなど素行上の問題が続き、歌唱力は高く評価されながら低迷していきます。 体調不良を理由に長期間の芸能活動休止に追い込まれましたが、2014年に紅白出場が実現し、話題になりました。 片や近藤さんはジャニーズ事務所に守られて2015年の紅白に出場しています。 いずれにせよ、明菜さんの自殺未遂はアイドル全盛時代ならではのスキャンダルだったと言えるでしょう。 Sponsored Links.

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ジャニーズ史上最大の事件 !? 「中森明菜自殺未遂騒動」と近藤真彦も同席した「金屏風会見」

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86年から87年にかけ、筆者は多くの現場で明菜の多彩な表情を見た。 渋谷公会堂で行われた「ザ・トップテン」のリハーサルでは、後輩の石井明美が歌う「CHA-CHA-CHA」を、同じ振付けで楽しそうに口ずさんでいる。 一転して三田の教習所で路上講習の姿をキャッチされると、マネジャーも抑えられないほどに激しい動揺を見せた。 本人は好きではなかったという「少女A」の歌詞そのままに、 〈私は私よ、関係ないわ〉と言いたげだった。 そして歌詞は 〈本当は臆病、わかってほしいのあなた〉と続く。 89年7月11日、日本中に衝撃を与えた「近藤真彦宅での自殺未遂」は、そんな痛切なメッセージをあらためて感じさせた。 その日、明菜は近藤のマンションで、浴室で血を流して倒れていた。 近藤が帰宅すると、明菜は「ごめんなさい」と泣きじゃくるばかりである。 「担当医から左ひじの内側を真一文字に切った写真を見せてもらって、これは大変なことだと思ったし、傷跡が残ることも考えられたね」 研音の社長として対応に追われた花見は、あまりの傷の深さに愕然となった。 切れた血管や神経をつなぐために、実に6時間もの大手術が必要であった。 慈恵医大病院の前で行われた会見では「責任はわれわれにある」と言うのが精一杯だった。 なぜならば花見は、いや、研音の誰1人として明菜に会うことを許されていない。 その「面会謝絶」が解除されたのは、事件から1カ月が過ぎてのことである。 「自分たちの力量が足りず、ファンに対しても申し訳がない。 この件からは、つまりは明菜のマネジメントからは撤退するべきだろうという結論になった」 花見が明菜にそのことを伝え、明菜自身も研音を離れるつもりでいたため、泥仕合になることなく「独立」への準備が進められた。 この年の大みそか、紅白歌合戦と同時刻に抜き打ちの会見が始まった。 明菜と、友人という形で近藤が出席。 花見ら研音スタッフは、この会見にかかわることはなかった。 すべてはジャニーズ側の仕切りであり、明菜サイドには数人のワーナースタッフがついたくらいである。 花見は以来、明菜とは1度も顔を合わせていない。 花見自身も10年前に研音を勇退し、芸能界とは距離を置いた場所にいる。

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中森明菜…自殺未遂事件の会見と真相について

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1980年代は、アイドル全盛の時代ですが、恋愛に関しては今よりずっと厳しく、中森明菜と近藤真彦も交際を公にはしていませんでした。 それでもマスコミやファンの間では半ば公認の間柄でした。 それを利用して、週刊誌に話題を提供し、露出を増やしたり、ドラマや映画で共演させて視聴率や興行成績を煽ったりすることもありました。 中森明菜と近藤真彦もバラエティーや歌番組で共演したり、雑誌の表紙を飾ったり、仲の良い交際ぶりを見せつけるかのような演出もありました。 平成のアイドル事情からすれば考えられないことですが、中森明菜と近藤真彦は1985年に、『愛、旅立ち』という純愛映画でダブル主演を務め、ラブシーンも披露しています。 1989年7月11日、近藤真彦の自宅マンションの浴室で、中森明菜は自殺を図りました。 帰宅した近藤真彦に発見された中森明菜は救急車で搬送され、6時間にも及ぶ手術を受け、一命をとりとめました。 当時、同情を買うための狂言ではと、心無い噂もありましたが、左肘付近を切りつけた傷は神経に達するほど深く、場合によってはマイクが持てなくなる後遺症が残る可能性もありました。 近藤真彦が発見したとき、浴室は血で真っ赤だったと言います。 合鍵を持つほど親密だった男性の部屋で自殺を図る女心とはどのようなものでしょうか。 交際が順調なら自殺なんかしません。 破局寸前か、破局した場合が最もよくあるパターンでしょう。 中森明菜と近藤真彦もそうだったのでしょうか。 後に金屏風事件と呼ばれる記者会見が開かれた日時も異例でした。 1989年12月31日、NHK紅白歌合戦の放送にぶつけて、生放送で中森明菜復帰記者会見は行われました。 中森明菜の自殺未遂事件の影響か、近藤真彦はその年の紅白出場を逃していました。 一方でHNKは、中森明菜に紅白歌合戦での復帰を打診していたといいます。 しかし、所属事務所とぎくしゃくしていた中森明菜はこれを辞退、新事務所設立と、年末の復帰記者会見の道を選びました。 メリー喜多川の嫌がらせという人もいます。 真相はわかりません。 ただ、中森明菜は慌ただしい年の瀬に、全くおめでたいムードの感じられない記者会見を、なぜか金屏風の前で行い、それが後に金屏風事件として人々の記憶に刻み付けられたという事実があるだけです。 抜群の歌唱力で歌詞の世界観に浸るように情感を込めて歌う中森明菜はまさに歌姫。 歌に感情移入しすぎて歌唱中に震えだすこともありました。 その真面目さ、ストイックさが恋愛や人間関係で中森明菜を精神的に追い詰めてしまったのかも知れません。 経済的に苦しく、家族関係が決して良好とはいえない家庭に育ったことも、中森明菜が情緒不安定で神経質な一面を持つ原因になったと考えられます。 それ故、金屏風事件の折は、重度のうつ病や拒食症、対人恐怖症が心配されました。 体調不良により2010年から活動を休止、4年間新しい楽曲がリリースされることはありませんでしたが、心に迫る歌声は人々から忘れ去られることはありませんでした。 過去の映像をまとめたDVDBOXが発売されると瞬く間に完売し、話題となりました。 約1か月の入院生活の間、メリー喜多川は中森明菜を「研音」から引き離し、独立するように仕向けたといわれています。 「研音」に不信感を抱いた中森明菜は独立を決意、新事務所の社長には近藤真彦のマネージャーだった小杉理宇造が就任することになりました。 こうしてみると一見、メリー喜多川は傷ついた中森明菜を守り、支援しているように見えなくもありませんが、現実には稼働直前に小杉理宇造が新事務所から手を引いてしまいます。 それも中森明菜を近藤真彦から遠ざけたいメリー喜多川の指示によるものという説があります。 中森明菜の新事務所は波乱の船出となりました。 その結果、中森明菜の新曲がリリースされるのは金屏風事件から半年以上後の1990年7月のことです。 マザコンと揶揄されるほど母親を大切にしていた近藤真彦ですが、1986年に実母を交通事故で亡くしています。 メリー喜多川は自らが母親代わりとなって近藤真彦を支えると週刊誌のインタビューで熱く語っています。 ジャニーズのアイドルの中には、アイドルの枠にとらわれず自分の可能性に挑戦する人も少なくありません。 彼らの多くがジャニーズ事務所を去る中で、近藤真彦はレース中心の活動期間中もジャニーズに在籍したままでした。 実質的にタレント活動をしていないにもかかわらず、ジャニーズを去らなかった近藤真彦は特別な存在です。 そんなことから、一部ではメリー喜多川と近藤真彦の関係を疑うような記述も見られますが、いくら何でも下衆の勘繰りが過ぎるといわざるを得ません。 金屏風事件から7か月後、前作から1年3か月経ってようやく中森明菜の新曲『Dear Friend』がリリースされました。 自殺未遂事件、金屏風事件、近藤真彦との破局とスキャンダルに苦しんだ中森明菜でしたが、人気は一向に衰えず、この後もヒットを連発しました。 意志をこめた強い瞳と、時折見せる天真爛漫な笑顔が中森明菜の魅力の一つでした。 しかし、金屏風事件以降の中森明菜の笑顔はどこかぎこちなく、痛々しくさえありました。 涙をこらえて失恋の歌を歌う中森明菜の姿に胸を痛めたファンも少なくありません。 デビュー当時から抜群のプロポーションを誇っていた中森明菜でしたが、金屏風事件以降はみるみる痩せ、ウエストは両手でつかめそうなほどでした。

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