玄 蔵川 水難 事故 ブログ。 玄倉川水難事故(DQNの川流れ)のその後と生き残りの現在について

ユーシン渓谷入口~玄倉川水難事故跡~丹沢湖ハイキング: 神奈川オヤジ歩き

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この記事の目次• 「玄倉川水難事故」とは~13名もの死者を出した史上最悪の水難事故 「玄倉川水難事故」は、1999年8月14日に神奈川県足柄上郡山北町の玄倉川で発生した、13名もの死者を出した史上最悪とも言うべき水難事故です。 blogimg. ただ、この「玄倉川水難事故」は多くの犠牲者を出した痛ましい水難事故である一方、 ある理由から世間から大バッシングを受けた事故でもあるんですよね。 そのため、この「玄倉川水難事故」は後に 「DQNの川流れ」と呼ばれることに。 そして、現在も毎年お盆の時期になると、ネット民にネタとして語り継がれており、良い意味で注意を喚起する教訓として使われているようです。 「玄倉川水難事故」の事故現場とは? 玄倉川は、隣接する丹沢山地の最高峰・蛭ヶ岳や檜洞丸、塔ノ岳など急峻な山を水源とし、相模湾からの湿った空気を高い山々で引き受けるため、冬季を除いて降水量が多いのが特徴です。 丹沢山地の最高峰・蛭ヶ岳 「玄倉川水難事故」の遭難事故現場について、これらの気象条件と地理的条件からWikipediaには次のように解説されています。 玄倉川は降雨量によっては急激に水位を増す可能性の高い渓谷である。 玄倉ダムも渓谷を堰き止める形で建設されたものである。 遭難現場は砂防用に造られた立間堰堤上流の、水流が湾曲する地点に広がった堆砂地で河床幅は約100メートル、堰堤より2メートル高かった。 冒頭に掲げられた遭難現場の写真からは 傾斜の少ない地形がキャンプの適地にもみえるが、植生があまりない場所であることからも窺えるように、豪雨の際は水没する地点である。 wikipedia. goo. また、「玄倉川水難事故」が発生するポイントにもなった、「玄倉ダム」の位置関係を地図で示すと次の通り。 blog. so-net. 玄倉ダムで放流が行われた場合、現場がどのような状況になるのかは想像に難くありません。 実際、事故現場には 玄倉ダムの放流による注意喚起を促す立て看板が複数設置されている場所でもあるんですよね。 もちろん、放流前にはけたたましいサイレンが鳴らされますし、 被害者はそのサイレンを何度も耳にしていたはずなのです。 事故があった当時は、 河川敷でのキャンプが流行っており、しかも、深夜に ペルセウス座流星群が観測できる時期でもあったんですよね。 そのため、事故現場は、お盆休みを楽しむ家族連れやカップルで非常に賑わっていたそうです。 fc2. この雨は長時間に渡って降り続き、事故当日である8月14日の早朝5時35分には、気象庁は事故現場を含む神奈川県内全域に 大雨洪水警報を発令しています。 事故現場近くの丹沢湖のアメダスには、玄倉川が増水した事故当日の午前8時までの総雨量は114mm、救助が開始される午前10時には、1時間に38mmと猛烈な降雨が記録されています。 そんな中、史上最悪の水難事故、「玄倉川水難事故」が発生したのです。 「玄倉川水難事故」の時系列まとめ 次に、「玄倉川水難事故」発生の経緯について、 時系列に沿ってみていくとにしましょう。 ただ、あまり詳細に記述しても煩雑になるだけなので、ごくごく簡単にまとめてみたいと思います。 大部分のキャンパーは、この時点で退避したようです。 降雨から半時も経たないうちに退避警告を発していたことからも、事故現場がどれほど危険な場所なのかが推測できますね。 13日:16時50分 神奈川県全域に大雨洪水注意報が発令されています。 また、19時40分頃には雨足がさらに激しくなり、事故現場から5km上流にある 玄倉ダムが放流予告のサイレンを鳴らしています。 13日:19時50分頃 ダム管理職員が2度目の巡視を行い、 被災者グループに直接、退避を勧告 するも拒否されています。 その後、ダム管理事務所は「これ以上は危険」と判断し、地元の松田警察署に通報しています。 13日:20時20分 玄倉ダムが放流を開始しています。 大雨時に放流せずにそのまま貯水していると ダムの決壊が起こる可能性があり、さらに甚大な被害が想定されることから、放流は避けられなかったようです。 そして、21時10分には、 ダム管理職員と警察官が3度目の退避勧告をするのですが、もはや直接勧告することができない状況になっていて、その後も拡声器での退避勧告を続けました。 14日:5時35分 雨は更に激しくなり、神奈川県全域に大雨洪水警報が発令されました。 また、この頃には再度、 ダム放流のサイレンを鳴動しています。 この頃までは、なんとか歩いて川岸に辿り着ける程度の水位だったようです。 14日:6時35分 豪雨による増水により、貯水機能の乏しい 玄倉ダムが本格的に放流を開始します。 7時30分頃には、警察官がテントまで2メートル付近まで近づき、退避を呼びかけるも眠っていたのか反応はありませんでした。 しかし、7時50分頃には 遂にテントに濁流が流れ込んできたようで、被災者グループは事の重大さに初めて気付くも、すでに両川岸は遠く、どちらの岸にも自力では戻れなくなっていました。 14日:8時4分 自力での退避が不可能となり、岸に退避した社員から消防に119番通報で 救助要請が入りました。 テントはすでに流され、 中州に取り残された18人が、川床の一番高い部分で一塊となり、パニック状態でただ濁流に耐える状態に…。 14日:9時07分 足柄上消防組合から救助隊5人が、通報を受けて現場に到着しています。 すぐに、渡渉による救助を試みますが、激しい水流のために断念しています。 10時10分には、 救助ヘリコプターの出動が要請されるものの、熱帯低気圧による強風と、低く垂れこめた濃雲のため二次災害が懸念され、却下されてしまいました。 1999年8月14日:11時38分 水位は胸にまで達し、 遂に中州に取り残された18人が濁流に流されてしまいました。 1歳の甥を抱いていた叔父が、とっさに子供を岸に向かって放り投げ、岸で見守っていた別グループの人に救い上げられて助かっています。 また、この子供の父親とその姉を含む 大人3人、子供1名も奇跡的に対岸に流れ着いています。 8月15日:8時30分頃 自力で対岸に泳ぎ着き、そこで一夜を過ごした4人の生存者が救助されました。 8月16日から警察・消防・自衛隊340人体制での捜索を実施 警察・消防・自衛隊は340人体制で捜索開始するものの、流れ出した流木など浮遊物が多く、捜索は困難をきわめました。 結局、 8月29日までに濁流に流された13人全員の水死体が丹沢湖で収容されました。 「玄倉川水難事故」がDQNの川流れと呼ばれる理由~リーダーの悪態&暴言 この「玄倉川水難事故」は、犠牲者の中には全員が死亡した一家もあるという、非常に痛ましい事故なのですが、前述の通り、 「DQNの川流れ」とも呼ばれていることも事実なんですよね。 被災者グループが事故の前後で取ってしまったDQNな態度や言動が、その理由となっているのですが、それがどうしてこうまで広まってしまったのでしょうか? 実は、「玄倉川水難事故」は事故の重大性から、 ほぼ生放送に近い形で全国に放送され、多くの人がテレビの前で固唾を飲んで、被災者グループの救出を祈っていたのですが…。 それとともにネットを中心に、「被災者グループはこんなことも言っていた」、「あんな暴言も吐いていた…」なんて様々な証言が次々と寄せられることになります。 たちまちネット上では炎上騒ぎとなり、拡散につぐ拡散がされた末に、 誰かが名付けた「DQNの川流れ」という名称が大ウケし、やがて1人歩きしていった…というわけです。 今回はそんな DQNたちが放った暴言の数々についてまとめてみました。 退避勧告をしたダム管理職員や地元警察官、心配する地元住民に対する暴言 大雨の中必死に退避を促す警察官やダム管理職員に対して、被災者のリーダーは鼻で笑いながら… 「早く失せろ、殴るぞ」 「放っておいて。 楽しんでるんだよ!」 などと暴言を吐いたそうです。 避難を勧めた私に対する彼らの態度は高圧的で不愉快極まりない物であった。 「水高が増えるから中州では止めた方がいい」といった私に若い男が 「大丈夫だよ。 俺達は馴れてるから」と冷笑しながら反論。 それでも 「私は地元の者だが、川は氾濫するよ。 高台に行った方がいい。 子供もいるんでしょう?」と冷静に忠告したが、リーダー格が 「放っておいて。 楽しんでんだよ」と放言したのを皮切りに 「地元の人は臆病」「見張りを置くから平気」 「田舎人は他人のプライバシーを侵すのが趣味ね」などとの声が広がったので、 私は呆れ果てて帰宅したのである。 我が山北町はキャンプ地としては人気が高く大勢の方が来訪するが、 都会人は自然に関する知識が心もとない。 「見張りを置くから平気」という暴言がその象徴で、 大雨時の川の急激な増水率を考慮すれば「見張り」はほとんど役にたたない。 しかも地理に詳しい地元の人間を嘲笑する様では、救いようの無いバカである。 そしてあのような結果に。 テレビや新聞では「悲劇」のように取り扱っていたが、 私に言わせれば単なる 「バカどもの必然的結末」にすぎない。 そもそも彼らがキャンプしていた場所は「キャンプ場」ではない普通の「川原」である。 (本来の「キャンプ場」はもっと高台)即ち彼らは死ぬべくして死んだのだ。 同情の余地など無い。 ただ可哀相なのは子供だ(子供には大人のような判断能力が無い) 「あのおじいさんのいうとおりにしようよ」と言った小さな女の子の言葉が忘れられぬ。 無念だ。 sakura. しかし、気付いた時には既に歩いて川の両岸へは辿り着けない状態になっており、グループは中州の一番高い場所で一塊になって、救助隊の到着を待ちました。 yahoo. 既ににっちもさっちもいかない状況の彼らにとって、救助隊は言わば救世主です。 もちろんその様子はテレビでライブ配信されていたわけですから、ネットを中心に大炎上に発展することに…。 地元住民が差し入れた手作りのおにぎりを「まずい」と地面に叩きつけたリーダー そんな被災者グループのリーダーなのですが、あれほどまでの危機的状況の中、 なんと数少ない生存者の1人として救助されています。 blog58. fc2. さらに、多くの仲間が濁流の流されているにもかかわらず、救助隊に対して 「テントを回収したら返して欲しい」と要求した…なんて話もあるようです。 仲間の心配ではなく、テントの心配をしていたわけで、ここまでいくと一周回って、むしろ清々しいくらいのDQNっぷりです。 「玄倉川水難事故」に遭ったグループやリーダーの加藤直樹とは 「玄倉川水難事故」で中州に取り残されたのは18人ですが、前日までは25人のグループでした。 度重なる警告を鼻で笑って無視をした末に、いざ身に危険が迫り、救助を受ける立場になっても、暴言や悪態の限りを尽くした、この被災者グループは一体何者なのでしょうか? まずは、この「玄倉川水難事故」に、「DQNの川流れ」なんて別名をつけられる最大の原因となった、被災者グループのリーダーをご紹介しなければなりません。 「玄倉川水難事故」に遭ったグループのリーダーとは? 「玄倉川水難事故」に遭った被災者グループのリーダーは、 「株式会社 富士繁(ふじしげ)」という産廃業者に勤務していた加藤直樹という男性でした。 事故当時の年齢は31歳で、驚くべきことに3児の父親だった言います。 DQNグループのリーダー・加藤直樹が救助されたシーン 「玄倉川水難事故」に遭ったグループのメンバーについて 最後まで警告を聞き入れず、最終的に中州に取り残され、流されてしまった18人の被災者は、「富士繁」の社員とその家族、および社員の婚約者や友達でした。 最終的に亡くなった13人は、「富士繁」の社員5人とその妻2人、さらに痛ましいことに1歳から9歳の子供4人と、社員が連れてきた女性2名という内訳だったと言います。 一方、濁流に流されながらも生き残った5人は、大人3人と子供2人ですが、 なんと生き残った大人のうちの1人は、加藤直樹本人で、子供2人はいずれも加藤直樹の子供だそうです。 「玄倉川水難事故」の生き残りのその後と現在 被災者したDQNグループの中心が「富士繁」の社員だったため、バッシングの矛先は当然、会社「富士繁」自体と生き残りのメンバー、特に 日本全国に醜態をさらした、リーダー加藤直樹に向いたことは言うまでもありません。 そこで、生き残りのメンバーと会社「富士繁」のその後と現在、そして「玄倉川水難事故」がもたらしたいくつかの影響について、紹介しましょう。 生き残りのうち3人の大人のその後は? リーダーである加藤直樹はもちろん、生き残った大人3人全員が、事故後に会見などは開いていません。 つまり、自らの傲慢な振る舞いによって、 世間を騒がせ、地元民や警察、救助隊などに迷惑をかけてしまったことを謝罪することは一切ありませんでした。 ここではあえてDQNリーダー以外の氏名は伏せますが、残りの生き残り2名についても、名前などが特定され、現在ではすっかり晒されてしまっているようです。 生き残りの2人の子供のその後 生き残りの2人の子供は、被災者グループのリーダーでり、暴言や悪態の限りを尽くした 加藤直樹の娘さんと息子さんであることが特定されています。 実は、2人の子供さんについても、現在ではしっかり名前まで特定されているのですが、子供に罪はないってことで、ここでは名前を伏せさせていただきます。 具体的な名前や事故の名称など詳細は伏せてありましたが、すぐに特定され、当時大変な話題になりました。 ネットを中心に大騒ぎになったためか、現在ではブログは閉鎖されていますが、コピペが残っていたので、こちらにも引用しておきます。 たまにね私、ふとあの時の事を思い出すんだ。 幼稚園の頃の事故あれは一体なんだったの?どうして私の家族なの? 小さい頃私がママを殺したんだ。 私さえ居なければママは生きていたんだ。 パパがね私を抱いててママがパパに助けを求めていたんだ。 手を伸ばしてね一生懸命流されないようにしてたんだ。 けどねパパまで水に連れていかれそうで怖かったんだ。 だからねパパやめて!って言ったんだ。 そしたらパパがママの手を離したの。 そしたらママ水と一緒にいなくなっちゃたの。 これって私のせいだよね。 ごめんね本当に…。 ママに逢いたいです。 小さい頃もずっとママが欲しかった。 皆にはママがいて私には居なくて悲しかった。 今でもママが戻ってきてほしいと思っている。 あと優香にも戻ってきてほしいんだ。 私には妹がいたんだよ。 そう簡単に言うなと思ったよ。 けど私なりに頑張ってきた。 毎日明るく生きてる… ーーー 引用:少女がブログ上で書いたとされる日記。 2chblog. 5歳の女の子が経験するには辛すぎる内容で、胸に迫るものがありますが、その一方で、 救助してくれた人々への感謝の気持ちが綴られていないという理由で炎上したそうです。 確かに、自身の辛すぎる心情のみを吐露した内容で、周りに対する気遣いや感謝の気持ちなどは一切含まれていない内容です。 ですが、元々そちらに向けて書いた記事じゃないわけですし、周りに対する配慮が足りないのは、きっと親譲りなんでしょうね。 また、子供の生き残りのうち、もう1人も加藤直樹の息子さんでしたが、息子さんについては、現在の様子などは 一切不明のようです。 ただ、あの強烈なDQNなお父さんを見て育ったわけですから、きっと立派なDQNに成長されている可能性が高そうなんですが…偉大なる反面教師にしていてくれることを祈るばかりです。 DQNグループが勤務していた「富士繁」のその後も絶賛営業中! 「玄倉川水難事故」で被災したDQNリーダー・加藤直樹を含む、5人の社員が勤務していた 「株式会社 富士繁」は、現在でも絶賛営業中なのだとか。 近年、「富士繁」が有する戸塚工場が 近隣住民との間に、騒音問題を起こしている…なんて話もあるようです。 「玄倉川水難事故」のその後、気象庁も台風の表現を変更 「玄倉川水難事故」で大雨をもたらしたのは、紀伊半島の南海上で発生した熱帯低気圧でした。 「玄倉川水難事故」後、気象庁は、同じ台風の強さでもより危険性を感じられるように 表現の改変を行っています。 ・台風の強さを表す「弱い」「並みの強さ」を、「強い」「非常に強い」「猛烈な」に変更。 ・台風の大きさを表す「ごく小さい」「小型」「中型」を、「大型」「超大型」に変更。 このように、 熱帯低気圧や台風の威力を甘く見ないように、より怖いと思えるような表現に変更しています。 総額4800万円もかかった救助費や捜索費は地元の自治体が負担 実は、「玄倉川水難事故」に関わる一連の救助作業や、事故後の遺体捜索のために、 地元自治体が4800万円もの公費を使ったそうです。 goo. 本来なら、救助され生き残った人や会社に請求しても良さそうなものですが、被災者がそのたとえ 一部分でも負担したなんて話は…やはり一切ないようです。 まとめ いかがでしたでしょうか。 1999年8月14日に起きた、13名もの死者を出した水難事故「玄倉川水難事故」の経緯、この痛ましい事故が「DQNの川流れ」と呼ばれている理由、生き残りのリーダーをまとめました。 現在も、お盆の季節がやってくるたびに、 注意喚起のネタとして度々話題に上る「DQNの川流れ」。 自然の怖さを再認識すると同時に、DQNな言動がいかに社会から袋叩きに遭う危険な行為なのか、 2つの大切なことを教えてくれる教訓として、これからも語り継がれていくでしょう。 とは言え、この事故でお亡くなりになった13名のご冥福をお祈り致します。

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玄倉川水難事故(DQN川流れ)のその後を詳しく解説!

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6月4日(日)、SLばんえつ物語号に乗って新津駅を後にして間もなくすると、乗客にこちらのものが配られた。 本日の記念乗車手帳である。 こういうサービスが、前日のNO. の旅での「自発的な」記念グッズの作成・配布にも活かされているのだろう。 ますます旅の気分が盛り上がったのだった。 とはいえ昼食の時間にはちょっと早いので、テーブルの上にはこんなものを展開させて場をつないだのだった。 汽車は阿賀野川に沿って山に分け入っていく。 こんな景色を見ながら過ごしていると、やがて津川という駅に到着した。 ここで、蒸気機関車の整備・点検や給水のために15分間停車する。 乗客にとっては絶好の写真撮影のチャンスだ! というわけで、友人と二人で喜び勇んでホームへ。 すると、そこにはオコジョの部屋があった。 待合室がこんな風だったら、きっと列車を待つ時間も楽しいことだろう。 そんなことを考えつつ、オコジョの像と一緒に記念撮影させてもらった。 そして、すぐに蒸気機関車のほうへ向かう。 すでにたくさんの人が集まっていたのだが、そこではこんな作業が行われていた。 後のほうに積んである石炭を、ならして前のほうに移す作業の真っ最中だった。 こ線橋の上からもパチリ。 山間のいい雰囲気ではないか。 ついでに、SLの整備の様子も見学。 SL列車としては日本最長の距離と時間をかけて走るだけに、途中駅での点検が欠かせないのだろう。 どうやら、どこも異状がなかったようだ。 そして、1号車にある「オコジョルーム」も見ておく。 展望室からは、C57の様子を間近に見ることができて面白い。 折り返し列車は、こちらが最後尾になるわけで、眺めもきっときれいだろう。 オコジョの被りものもあったので、記念にパチリ! やはり自分自身が、童心に返っていることがわかる。 こうして、定刻通り11時30分ごろに発車。 駅では、みんなが手を振って見送ってくれた。 SLというのは、観ている人が手を振りたくなる列車なのかもしれない。 さて、いつしか列車は新潟県から福島県へ入った。 阿賀野川は阿賀川と名前を変え、家の屋根もどこか会津っぽくなってきた。 「ばんえつ物語」という名前だけに、磐城と越後の両方を楽しめるのも、この列車の魅力の一つだ。 しかし、ここで転んでもタダでは起きないのもまた私だ! すぐさま勝ち抜いた方にお願いして、写真を撮らせて頂いた。 幸運の象徴みたいなものであり、きっとこの画像を見た方も福があることだろう。 ちらし寿司で、蒸気機関車の動輪をレンコンの輪切りで表現しているところが面白い。 そしてこのお弁当には、もう一つのお楽しみがある。 友人が選んだのは、ばんえつ物語弁当である。 2つを並べるとこんな感じ。 ラーメンと蔵のまちである喜多方駅を過ぎると、終点の会津若松駅はもう目と鼻の先だ。 こうして、4時間余りの道中を、感覚的にはあっという間に過ごしたのだった。 会津若松では、やはり歓迎の横断幕が迎えてくれた。 名残惜しいが、最後に記念写真を撮ってばんえつ物語とお別れする。

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1999年夏、私達キャンプ好きにはとても衝撃的なことが起こりました。 玄倉川で痛ましい家族キャンパー水難事故が発生しました。 川の中州でキャンプしていた家族が増水で流され大人子供合わせて13人が死亡したのです。 渓流脇でキャンプすることの多かった私も他人事ではありませんでした。 ゴールデンウィーク中日、玄倉川を出来るだけ上流まで行き、出来ればユーシン渓谷に近づき、そこからずーっと下流まで歩き、丹沢湖の北側側湖畔をひたすら歩き、更に宿泊地の中川温泉信玄館まで歩く、というロングハイキングです。 途中、例の事故現場を通ります。 タクシーで玄倉川を出来るだけ上流まで上って下さい、と頼んだところ、ユーシン渓谷のかなり手前で降ろされました。 土砂崩れで車も歩行者も通行禁止とのこと。 やっぱり工事にはお金がかかるのですかねえ。 無駄な工事しないで、こういうところを工事して欲しい、と願うのは見当違いでしょうか。 そんなこともお構いなしに、通行止め地点には車が一杯。 下を見ると家族キャンプと子供の騒ぎ声が。 テントを張っています。 楽しそうですねえ。 5月の爽やかな青空の下、気持ちの良い新緑ハイキング。 特に下り続きなので、しんどくもありません。 最高の気分! 思わず鼻歌で出てしまいます。 程なく西丹沢県民の森方面に向かう林道との分岐点に。 ここって全国森林浴の森百選になっているのです。 ユーシン渓谷でなく、こっちにしようかなあ、とも思っていたのですが、結果は同じです。 どちらも通行止め。 通行止めの橋の上から眺める玄倉川は、絵に描いたような日本の美しい渓流。 こんな中でキャンプしたらどんなに素敵な時間が過ごせるでしょう。 あの時の家族達もきっとそう思ったに違いありません。 事故の場所もまさにそういう美しい渓流のど真ん中。 今はただの広い砂利の中洲。 こんな広い中州が急に川に飲み込まれるなんて、当人達も想像できなかったのでしょう。 あの年の8月、夏休みのキャンプ、横浜の会社員家族とその恋人・婚約者18人が中州でテントを張ってバーベキューパーティー。 でも雨が徐々に降り始め、他のキャンパー達は皆避難しました。 消防隊員達が彼等も避難するよう何回も説得しましたが、彼等は取り合いませんでした。 何度もここでキャンプしてるから大丈夫と。 雨の量が増え、玄倉ダムの決壊が心配され出しました。 とすると放流するしかありません。 警告のサイレンが鳴ったそうです。 消防隊員による最後通告に近い避難警告。 でも彼等は避難しませんでした。 当時はその彼等の態度が随分批判もされましたが・・・・・ それから先はテレビで何度も放映されたあの恐ろしい映像。 大人の腰より高くなった水位にテントも何も流されだします。 事の重大さに大人達が気付いても、もう遅かったのです。 映像の中で水流に流されて消えていく大人や子供の姿が、今でも忘れられません。 キャンパーの知識の一つとして、どんなに川が小さくても、水面から1.5~2メートル以上の場所にしかテントを張ってはいけないというのがあります。 水位なんてあっという間に変わるからです。 彼等は知らなかったのですね。 運の悪いことに、この中州のすぐ下流には堰があって、 ずどんと一気に深い川に落ちてしまいます。 こうなるともうどんなに泳ぎが上手くても助からないでしょう。 子供を必死に抱えていた親も、子供と離れ離れになってしまったのでしょうか。 その先はもう丹沢湖です。 結果として、大人子供合わせて13人が死亡するという、おそらく日本キャンプ史上最悪の事故になりました。 当時、我が家はキャンプ全盛期。 子供達もまだ小さかったので、文字どおり他人事ではありませんでした。 wikipedia. そーっと道の端を歩きます。 死んでいるのでしょうか?動きません。 でも油断は出来ません。 さーっと妻と二人で駆け抜けます。 丹沢湖に出ました。 北側の湖畔の道を歩きましょう。 対岸に玄倉湖キャンプサイトが見えます。 先ほどの事故を忘れてしまうほどの、まさにゴールデンウィークファミリーキャンプ。 晴れた空の下、眩しい位の太陽光を浴び、妻はやや紫外線を気にしながらハイキング。 私も日焼けしたかも。 道の下の湖の入り江では、釣り船に乗ったオジサンが場所探し。 真下で釣り船というのも不思議な感じ。 でもちょっとだけ事故の遭難者捜索も連想させます。 丹沢湖小学校中学校に向かう大仏大橋まで来ました。 話は変わりますが、神奈川県の高校駅伝はここ丹沢湖で毎年やるそうです。 湖を回り、最後にこの橋を渡って学校の前でゴールインするのだとか。 さぞかし高校陸上部の人たちで沸き返っているのでしょうね。 長女次女共高校陸上部だったため、話は聞いていました。 今は鴨(?)に餌をやろうとしてる子供達とカヤックに一汗かいてるオジサンの光景が何とも微笑ましい。 平和の国ニッポンです。 疲れてきましたが、更に北側に歩き、何とか丹沢湖北端の中川橋に。 はるか向こうに目標地点の中川温泉が見えるかな? さあ、ここからは車でも何度か通っている県道を上ります。 さすがに汗びっしょり。 右側の中川バーベキューセンターを横目に中川温泉を目指してラストスパート。 既に2時間半は歩いています。 そしてようやくかなたに中川温泉信玄館が見えてきました。 早く風呂に入りたい、ビールを飲みたい、 それ一心で上り続けます。 いつもは汗一つかかない、なんてほざいている妻もさすがに、もう疲れた、とのたまっています。 駅伝のゴールではありませんが、これも一種のゴール?! 中川温泉到着です。 ほぼ3時間のロング、自分を褒めてあげましょう。 部屋に入ると、一目散に温泉へ。 妻と家族貸切の風呂へ。 何とも洒落た桶の風呂。 極楽とはこのことでしょう。 しかし、また事故のことを思い出します。 実は私の家族、あの事故の翌月、ここに宿泊していたのです。 前日はバウワーハウスでのキャンプ。 そして、この信玄館の仲居さんから聞いた本当の話。 亡くなった家族、彼等はキャンプの翌日、この信玄館に宿泊の予約をしていました。 ウチと同様、テントでのワイルドな一泊の後は、最後に温泉旅館で〆る、という考えだったようです。 しかし彼等が暖かい温泉に浸かることはありませんでした。 最後まで見つからなかった遺体、一歳の幼児でしたが、その子が見つかったのは事故の2週間後。 仲居さんの話を信じるのであれば、その遺体は先ほどの中川橋のところ、つまり丹沢湖で最も北で、中川温泉に近いところだったそうです。 冷たい水の中で、暖かいお湯に浸かりたかったのでしょうか・・・・・.

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