練馬城址公園。 「としまえん」が8月31日に閉園、94年の歴史に幕 跡地にはハリー・ポッターと防災公園

練馬城とは 遊園地「としまえん」になっているかつての東京の古城

練馬城址公園

西武ホールディングス(HD)のグループ会社が運営する遊園地「」(東京都練馬区)が、段階的な閉園を計画している、と報じられた。 西武側は現時点で、決定事項はないとしている。 しかし実は、としまえんの敷地には、以前から公園化する計画があった。 突然と思われがちの「閉園報道」を読み解く。 跡地は防災公園と「ハリポタ」に? 「としまえん閉園検討」は2020年2月3日午前、新聞やテレビを始めとする主要メディアから、一斉に報じられた。 報道を総合すると、20年以降に段階的に閉園し、跡地は東京都が整備する防災公園となり、敷地の一部は23年春にもワーナー・ブラザースによる「ハリー・ポッター」のテーマパークに生まれ変わるという。 各社は「関係者への取材」を通し、春にも正式決定する見込みだと伝えている。 老舗遊園地の「閉園」報道によって、インターネット上では製造から100年以上の歴史を持つ回転木馬(メリーゴーラウンド)「カルーセルエルドラド」の動向も注目されている。 しかし、西武鉄道広報部は2月3日、J-CASTニュースの姉妹サイト「Jタウンネット」の取材に対して、 「そもそも閉園やテーマパークができるという話も決まっていることではないので、エルドラドをどうするかということに関しても、特段なにも決まっていない状況です」 と回答。 現時点での決定事項はないとの立場を示している。 今回の報道を受けて、インターネット上にはショックと悲しみの声が続出。 2月3日にはツイッターの「日本のトレンド」で、数時間にわたり1位に「としまえん」が入った。 しかし、これまで公表されてきた各種資料を読み込むと、閉園報道が突如として起きたものではないとわかる。 東日本大震災がターニングポイントに 報道を読み解くにあたり、重要なのが東京都の事業計画だ。 さかのぼること半世紀以上、都は1957年に都市計画公園のひとつとして、この一帯に整備する「練馬城址公園」を指定した。 それから長年にわたり具体化はしなかったが、石原慎太郎知事時代の2011年に事態が動いた。 東日本大震災が起きたこの年に発表された「都市計画公園・緑地の整備方針」改訂版では、新たに整備する「新規事業化区域」のひとつとして、練馬区春日町1丁目と向山3丁目の21万9000平方メートルで構成される「練馬城址公園」を挙げている。 計画期間は、11年度から20年度までの10年間と定められ、まもなく最終年度に突入する。 同時公開された「参考図」を見ると、としまえんの主要施設があるエリアが、敷地内を東西に流れる石神井川をはさんで、すっぽりと覆われている。 網掛けされた区域部分には、隣接する温浴施設「豊島園 庭の湯」や、「トイザらス」「ベビーザらス」としまえん店なども含まれるが、シネマコンプレックス(映画館)の「ユナイテッド・シネマとしまえん」は範囲外にある。 都は、公園整備によって、防災機能の強化をもくろんでいる。 優先整備区域の選定理由については当時、 「公園、緑地が持つ機能と役割について、防災、環境保全、レクリエーション、景観の魅力、この四つの視点と水と緑のネットワークを形成する上での重要な位置づけ、こういった点から重点化を図るべき公園、緑地を選定しております」(11年10月4日、都議会都市整備委員会での都市づくり政策部長発言) 「緑地が持つ本来の機能の発揮はもとより、本年三月に発生した東日本大震災を踏まえまして、防災機能強化等の視点から優先整備区域としております」(11年11月8日、都議会環境・建設委員会での都公園緑地部長発言) などと説明していた。 遅々として公表されない整備計画 方針決定から、8年ちょっと。 都知事は石原氏、猪瀬直樹氏、舛添要一氏、小池百合子氏と変遷したが、その動向はあまり伝えられないまま時は過ぎた。 小池知事就任後の16年12月に出された、都の中期計画「都民ファーストでつくる『新しい東京』〜2020年に向けた実行プラン〜」でも、18年度に「練馬城跡公園」(原文ママ)の整備計画を策定するとしているが、現状どうなったかは聞かれない。 ただ、その間にも東京都議会では、しばしば公園整備をめぐる議論がされている。 直近では19年12月11日の本会議で、練馬区選出の尾島紘平都議(都民ファーストの会)が、「事業化のリミットも来年度に迫った」現時点での整備計画の進捗を質問した。 これに対して、三浦隆・都建設局長は「引き続き、地元区と緊密に連携をとりながら、整備計画の策定に取り組んでまいります」との回答にとどめている。 同様の議論は、地元の練馬区議会でも行われてきた。 19年9月5日の本会議では福沢剛区議(自民)が都との協議内容を質問し、森田泰子・区企画部長が「現在のところ、具体的な整備内容やスケジュールは示されていません」と答弁している。 練馬なのに「としま」な理由とつながる「練馬城」 公園の名前からわかるように、かつてこの地には「練馬城」が存在した。 14世紀に豊島氏が建てたこの城は、太田道灌に攻め込まれ、後に落城したとされている。 それから約400年たった1926年(大正15年)、跡地に作られた遊園地には、豊島氏にちなんで「練馬城址豊島園」と名付けられた。 豊島園なのに豊島区にないのは、こういう事情があるのだ。 90年代には「史上最低の遊園地。 」といった広告が話題になり、都営12号線(現:大江戸線)の開通で、交通アクセスも改善。 バラエティー番組「水曜日のダウンタウン」(TBS系)の企画で、安田大サーカス・クロちゃんが園内に「収監」され、見物客が殺到した騒動(2018年12月)も記憶に新しい。 いまでこそ「気軽に行ける遊園地」といった印象だが、開園当初のとしまえんは、どういう姿だったのか。 18年12月3日の読売新聞(東京版朝刊)では、「『としまえん』なぜ練馬区に? 豊島氏居城跡に遊園地」のタイトルで、としまえんの広報担当者と、郷土史家の葛城明彦氏のコメントを掲載。 葛城氏は「遊園地とはいえ、練馬城の城址公園との意味合いが強かった」と指摘していた。 幼少期から通っていた筆者としては残念ではあるが、「本来の姿」に近くなるのであれば、それはそれでアリなように思える。 (J-CASTニュース編集部 城戸譲) 外部サイト.

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【東京都練馬区 としまえん跡地】ハリーポッター スタジオツアー(オープン予定日/施設情報/採用求人募集)

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スポンサーリンク としまえん閉園 東京練馬にある遊園地「としまえん」が、 8月31日で閉園することが発表されました。 豊島園庭の湯は2020年9月1日以降も営業します。 「としまえん」は練馬城の跡地に建設された遊園地で、歴史は古く開演したのは1926年(大正15年)です。 また敷地もかなり広大で、遊園地だけでなく昆虫館やあじさい園、グラウンド、トイザらスまであります。 そして、「としまえん」といったら敷地の約半分を占めるプール。 遊園地は行ったことなくても、プールは行ったことがある人も多いのではないでしょうか。 としまえんからのメッセージがこちら 1926年(大正15年)に開業した「としまえん」は、2020年8月31日をもちまして閉園することといたしました。 開園以来長きに亘り地域の皆さまから支えられ、そして大変多くのお客さまにご来場いただきましたこと、深く御礼申し上げます。 残された期間において、お客さま及び従業員の安全・安心を第一に、新型コロナウイルス感染症の拡大防止予防に取り組むとともに、お客さまに少しでも多くの「ほほえみと元気」をご提供できるよう、今まで以上に心のこもったサービスでお客さまをお迎え致します。 引用:公式サイト そんな「としまえん」が閉園する理由として、 都市計画公園「練馬城址公園」が挙げられます。 としまえんの今後の予定は? 新型コロナウイルスの影響で休止中でしたが、6月13日にあじさい園だけ再開します。 プールを除く遊園地全体は6月15日の再開予定となっています。 都市計画公園「練馬城址公園」とは? 「としまえん」の閉園の理由となっている都市計画公園「練馬城址公園」とは、 としまえんを中心とした一帯の地域を公園化する計画です。 具体的な地域として、練馬区春日町1丁目と向山3丁目の21万9000平方メートルの敷地だそうです。 1957年(昭和32年)に、東京都はとしまえんを中心とした一帯を、都市計画公園「練馬城址公園」に指定しました。 もう半世紀以上前のことですね・・・ その後、特に具体化せず公園化の動きはありませんでした。 しかし2011年石原慎太郎知事のときに、東京都は 「都市計画公園・緑地の整備方針」の改訂版を発表。 2020年度までに優先的に整備する 新規事業化区域に練馬城址公園が指定されたんですね。 練馬城址公園は防災の観点から重点化を図る公園として見られていて、緊急時の避難所となる予定です。 半世紀以上も動きの無かったのに2011年に動き出したのは、東日本大震災から首都東京の防災機能の強化を図るため。 都市計画「練馬城址公園」の目的と機能 2020年6月12日に 都市計画「練馬城址公園」の覚書が締結されました。 「練馬城址公園」の目的は• 「緑と水」:都民の憩いの場• 「広域防災拠点」:避難場所や防災施設等の確保• 「にぎわい」:交流活動の場の創出 です。 またこの都市計画「練馬城址公園」の覚書は• 東京都• 練馬区• 西武鉄道株式会社• ワーナー ブラザース ジャパン合同会社• 伊藤忠商事株式会社 上記が締結者となっています。 ワーナー・ブラザーズが関わっていることもあり、「練馬城址公園」の段階的な整備とともに スタジオツアー施設等の設置も検討されています。 このスタジオツアー施設とは、 「ハリーポッター」のスタジオツアー施設のことのようで、設置期間は30年。 それ以降は都立公園として整備される予定です。 ハリーポッターのスタジオツアー施設は、 2023年前半の開業を目指しているそうです。 「としまえん」の跡地に広大な公園と新たなスタジオツアーが造られ、としまえんの敷地は新しく近代的に生まれ変わりそうですね。 ハリーポッターのスタジオツアー ハリーポッターのスタジオツアー施設は世界で2つ目(1つ目はイギリス・ロンドン)。 イギリスでは有名な観光スポットで、チケットも事前予約が必須となる超人気アクティビティです。 2023年に東京練馬に同じような施設が造られたら、東京ディズニーシー(ランド)とならぶ東京の人気スポットになりそうですね!.

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都市計画練馬城址公園の整備にかかる覚書の締結|東京都

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・「 としまえん」は谷戸がいっぱいある地形なのでそれを活かした公園になればいいと思っています。 ・ 「としまえん」が練馬城趾公園になるという計画があると聞いて区民として気になっている。 今あるプールなどの施設がどうなるのか、その後公園になったらどうなっていくのか、練馬のみなさんが公園に対してどう思っているのか、お話が伺えるといいなと思う。 ・ 防災公園が出来るというので、どんな地形か興味があって参加した。 昔の話が聞けてよかった。 ・ みどり 豊かで、発災時に火事から逃れた時、守ってもらえるような公園にして欲しい。 知らない歴史が聞けてよかった。 ・ 防災公園って、都が一方的に言っていてわからないなと思う。 「としまえん」は子どもが小さい時から馴染んでいた。 家の近くに 遊園地があることで、孫たちがそれを楽しみに来ているので、「としまえん」が無くなるのは惜しいという気がする。 歴史的なことが聞けて楽しかった。 ・ NPO で人形劇団をやっている。 ここに防災公園ができると聞いた時に子どもたちのために楽しめる小さな劇場のような空間が欲しいと思った。 今日は自分が住んでいる地域の地形のことなどがわずか2時間で知れて、賢くなったような気がする。 ・ 本当に練馬城趾公園は現実的に出来るのか? ・ 西東京の谷戸町という所に住んでいるが地名の意味がわかった。 出身が宮城県の気仙沼だが、修学旅行に来た時に泊まった宿泊地が「としまえん」でした。 45年ぶりに園内を回った。 このような地形の所だとは知らず、たいへん勉強になった。 ・ 小竹町に生まれて「としまえん」には馴染み深い。 貴重なお話ありがとうございました。 ・ 子どもがまだ幼稚園児でよく連れて来るが、子どもが気になっていつも下ばかり向いている。 今日は上の方を見て新しい発見でした。 もっと遊園地としての「としまえん」だけの話でなく、今日のような土地の性格のことをもっと知れたらいい。 ・ 練馬の平和台で生まれているので、子どもの頃から「としまえん」とは馴染み深い。 入園料とか無い時代、お花見とかで勝手に入った。 母は85歳になるが滝野川で生まれて小学校1年の時に遠足で来たと聞いた。 その当時は、すごく田舎で菜の花畑を通って「としまえん」に行った。 そのときすでに池やウォーターシュートがあった。 たぶん整備されるときれいな公園になると思われるが、もっと自然な昔のような公園にして欲しい。 遊園地が一切なくなるのは寂しいのでエルドラドなどは残して欲しい。 ・ 趣味でお城巡りをしている。 ここに練馬城があったことは前からわかっていたが、詳しい資料が無く、今回参加した。 石神井川と谷戸に囲まれた土地に、お城の砦を築いたのは、戦国時代なので、なるほどと思い、その他大変参考になった。 ・ 亀戸中央公園などは、工場跡地で真っ平らで何も無い所だったが、いざ公園が出来るといろいろと作られ、「ここは何やっちゃいかん、ここは何やっちゃいかん」とそういう公園にする。 どうかなという気持ちがありました。 これから公園を作るにしてもどういう公園にするのか、みなさんの希望を入れて、いい公園にしてもらいたい。 ・ 光が丘に越して来て 10年くらい経ち、周りはちょっと歩くが、「としまえん」には2・3回しか来たことがなくよくわからなかった。 いろいろな話を聞かせてもらって嬉しかった。 ・「 としまえん」には花見の時に行くくらいで身近な場所ではない。 庭の湯にはちょくちょく行くが、公園の中にはなかなか入らない。 始めて奥まで入ってこういう場所なんだとわかった。 防災公園の計画が持ち上がって、一旦更地にして公園計画を進めるのではなく、その土地の歴史や経緯を踏まえて、それを受継いだことがわかったような公園して欲しい。 防災ということでいうと、万が一の時に逃げ込むだけの場所ではなく、普段から防災意識が持てる場所、自然への畏怖を持てるような公園だといい。 現在、ハイドロポリスがそびえる小高い山は、かつて「矢ノ山」と呼ばれていました。 江戸時代の絵図をみると、急峻な山がそびえています。 誇張はあるにしても、崖がなだらかに整形されたことを割り引き、斜面林を茂らせれば、こんなふうに見えていたのかな、と思わせます。 矢ノ山と表記されていますが、「や」とは氾濫原のことです。 白子川の旧名のひとつである「矢川」や、石神井川最大の氾濫原であった「谷原」などと共通します。 かつてこのあたりに氾濫原が広がっていたことが、古地名にとどめられています。 平地が広がる武蔵野台地では、川辺から見上げた崖線上の森や、こんもり茂った屋敷森を「ヤマ」と呼んでいました。 「矢ノ山」は、氾濫原の「や」のほとりの「やま」に由来する地名だと考えられます。 矢ノ山は、練馬城の本丸跡です。 11世紀頃(平安時代末期)~15世紀末(室町時代)にかけて、石神井川流域を中心とする旧豊島郡あたりを支配していた豊島氏の居城のひとつでした。 文明9年(1477)太田道灌に攻められたときの城主は、豊島平右衛門尉。 一族の長、豊島勘解由左衛門尉(かげゆざえもんのじょう)の弟でした。 江古田原の戦いで平右衛門尉は討ち死にし、生き残った将兵たちは本拠地である石神井城に敗退。 さらにそこも落城し、豊島氏は滅亡に追い込まれました。 練馬城の跡は、発掘調査によって、本丸跡や、空堀・土塁の一部などが確認されています。 図は、豊島園練馬城址調査団報告書をもとに作成された練馬城跡の復元図です。 (『兎月園と練馬城の復元想像図』より) 城の鬼門の守りの「城山稲荷」、落城時に姫様が飛び込んだともいわれる「嬢ヶ淵」(城ヶ淵からの転か)などの名も伝わります。 戦国時代以前の城は、天守閣がなく、規模も小さなものでした。 八王子城などの山城と異なり、山のない武蔵野台地では、崖線上など小高く見晴らしのよい場所を占め、空堀をほった土で土塁を築き、本丸や二の丸などを囲っていました。 土塁の上には高い柵が張り巡らされていたと思われます。 本丸は、戦さになったとき立てこもる場所だったようで、石神井城発掘調査などでも、大規模な建物跡は発見されていません。 中世の城館は、解明されていないことが多く、詳しい構造はよくわかっていません。 いくつかの城跡で想像復元され、また想像図が示されています。 江戸時代の城を見慣れた目には、城というよりも「砦」のイメージです。 練馬城も大きくは違わない造りだったと思われます。 今は河川改修によって直線状の都市河川になっていますが、かつては文字通り三本川の「川」の字のように分かれて流れていました。 くぼ地の中央の流れは「大川」あるいは「悪水」などと呼ばれ、両岸の崖線の直下に氾濫流路と呼ばれ、また用水として使われたハケ下の分流が流れていました。 ともにくねくねと曲流し、洪水のたびに流路が変わりました。 明治期の地図をみると、その様子がわかります。 川沿いに水田が開かれていましたが、河川改修前は概して水はけが悪く、ざぶった田、どろっ田などと呼ばれ、水を抜くことができない水田が多かったようです。 また、狩野川台風(1958)のような大洪水のときは、くぼ地全体が水につかってしまいますから、土地生産性という意味ではあまり高くない土地柄でした。 このような田んぼでは、「田舟」や「田かんじき」「田げた」などの道具が使われていました。 昭和10年代になると、下流部から河川改修がはじまりました。 昭和12年(1937)の地図をみると、豊島園の東、中之橋から下流は河川改修によって川が一本にまとめられ、すでに直線状に改修されたことがみてとれます。 しかし上流部は、まだ未改修で、依然としてくねくね曲がって流れています。 谷戸とは、行き止まりになった谷のことです。 武蔵野台地では、台地に切れ込んだ支流の短い谷地形に「~ヶ谷戸」(~がやと、~げいと)の地名がつけられました。 谷津、谷地などの地名もあります。 石神井川では、練馬付近に小さな谷戸が集中しています。 武蔵野台地は、青梅を扇の要とする古多摩川の扇状地ですが、井の頭池~善福寺池~三宝寺池~大泉・井頭池の崖上を結ぶ「50m崖線」を境として、地勢が変化します。 50m崖線から西は、傾斜がやや急で、ここが本来の扇状地。 50m崖線が扇状地のへりです。 崖下から武蔵野礫層の主湧水が湧き出ていました。 50m崖線より東の下流部では、傾斜がややゆるくなり、いわば扇状地の裾野にあたります。 台地の尾根筋に沿って主湧水の支脈が走り、あちこちで小さな湧水となってわきだし、台地を刻んで小さな谷戸をつくりました。 板橋あたりより下流になると、湧水が少なくなるためか、ミニ谷戸は少なくなります。 このような理由により、練馬付近にミニ谷戸が集中していると考えられます。 このほかミニ谷戸は、さらに下流の武蔵野台地と下町低地を分ける荒川崖線付近にも多くみられます。 「としまえん」付近の原風景は、どのようなものだったのでしょうか。 中之橋付近でくぼ地の幅が狭まり、せき止められるかたちになるため、現・「としまえん」付近から貫井方面にかけて広い氾濫原が広がっていたと思われます。 昭和30年頃(1955)の石川橋付近から上流を望む写真をみると、両岸に水田が広がっています。 土手からすぐ近くの浅いところを水が流れており、子供たちがザリガニ釣りでもしているのでしょうか、川が遊び場になり、またシジミや魚をとり、野菜の洗い場などとして使われていた往時の「川と人との近しい関係」がしのべます。 氾濫原には、水田として利用できない湿原(葦原)もあり、貫井川付近では、戦後一時期、牧場として利用されていたところもありました。 その頃と思われますが「貫井の小流」と題した昭和30年頃の写真があります。 どろんこの草地のあいだを小さな小川が曲流し、氾濫原の原風景はこのような姿だったのではないかと思われます。

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