大山 のぶ代。 初代ドラえもんの声優は誰?大山のぶ代でも水田わさびでもなく…?

ドラえもんと言えば、大山のぶ代でしょ?1979年から26年間もドラえもんだった彼女は今。

大山 のぶ代

ちなみに富田耕生は、当時の裏番組のマジンガーZでドクターヘルも演じてたんっすよ! 【雑学解説】初代ドラえもんの声優はバカボンのパパの声優と同じ ドラえもんは1979年にスタートし2005年にリニューアルしたが、その後も放送を続ける国民的人気アニメである。 ドラえもんの声は、1979年から2005年まで演じていた大山のぶ代のイメージが非常に強い。 しかし、 1973年にもアニメドラえもんは製作され、 日本テレビ版系列で放送されたことはあまり知られていない。 初代ドラえもんの声優は、 富田耕生であった。 富田耕生は、平成天才バカボンから バカボンのパパを演じている。 当時は、ドラえもんと同じ時間帯に他局で放送されていたマジンガーZで悪役の ドクターヘルも演じていた。 現在では女性声優が演じているイメージが強いドラえもんだが、最初はおじさんの声だったのだ。 原作初期のドラえもんは、 子供と比べると大柄で 腕力もジャイアンより強かった。 まさかの努力が無駄に終わるっていうパターン!! テコ入れが逆効果だったのかは不明だが、 アニメの主人公の声優が変更になるのは、当時としては 異例の事態である。 長期作品ならともかく、これだけの短期間で交代になることは現在でも考えにくい。 声優交代が視聴者に与えた衝撃は大きかったといわれている。 ともあれ、声優が変更になったことでドラえもんはおじさんのような雰囲気から子供っぽい性格に変化し、 当時の原作の雰囲気により近くなった。 視聴率は苦戦していたが スポンサーが定着することになり、赤字だったアニメ制作会社・日本テレビ動画を黒字にすることに成功したのである。 制作されなくなった「日本テレビ版ドラえもん」 目標の視聴率には届かなかったが、番組の延長はほぼ決まっていたという。 しかし、 日本テレビ動画の社長が突然失踪するというまさかの事態が起こってしまう。 1973年、当時の社長・新倉雅美氏は突然失踪し、その後フィリピンのマニラに移住、借金を抱えてピストルの運び屋となり、銃刀法違反で逮捕されている…。 日本テレビ動画を引き継いだ新しい経営陣は、ドラえもんが生み出した利益で負債を返済すると、 会社の解散を決めてしまう。 制作会社が解散したため、日本テレビ版ドラえもんは制作不可能になってしまったのだ。 あまりに早い放送終了のためか、 ドラえもん役の野沢雅子はこのときの アニメをモノクロと勘違いしたという珍事も起こっている。 実際はカラーで制作されていた。 会社にあった アニメに関連した資料などもほとんど処分されてしまい、スタッフが個人的に所有していたもの以外はほとんど現存していない。 あまりに急なアニメ終了となったため、 小学館や不二子プロに事情が伝わらず遺恨を残すことになったといわれているのだ。 その後、藤子不二雄作品は6年間、新作アニメが制作されなかった。 この事実は、原作者側がアニメ制作に関して不信感をもったためだろう。 それでも日本テレビ版ドラえもんの製作スタッフは、いずれ製作が再開されると信じて、 最終回にもかかわらず「次回をお楽しみに」というメッセージで番組を締めくくったという。 しかし、一度失敗した作品ということもあり、アニメ化の話は簡単には実現しなかった。 自分の作品に自信を失っていた藤子・F・不二雄は、ドラえもん2度目のアニメ化の条件として、 藤子不二雄A作品と同時のアニメ化を希望したという。 そこには、自分の作品の問題点をわかりやすくしたい考えもあったといわれている。 こうして、ドラえもんと同時に怪物くんの2度目のアニメ化も決定した。 日本テレビ版ドラえもんでレギュラーを演じていた声優の一部は、テレビ朝日版でも役を変えて続投することになった。 のび太の母親を演じていた小原乃梨子は のび太役になり、 ジャイアン役だった肝付兼太が スネ夫を演じている。 ジャイアン役からスネ夫役…えらい大胆なチェンジっすね~! 2代目ドラえもんだった 野沢雅子は、テレビ朝日版ドラえもんではエキストラの少年を演じるだけだったが、藤子不二雄A作品の 怪物くんで主人公の声をあてることになったのだ。 テレビ朝日版のドラえもんは、何の説明もなくドラえもんが最初から登場する 「ゆめの町ノビタランド」が第1話として放送されている。 これは、 日本テレビ版の続きを意識して作られたためだといわれている。 テレビ朝日版も初期のエピソードは日本テレビ版に近い雰囲気で制作されていたが、 1983年にキャラクターデザインが変化し作風も変わっていたという。 ところで、初代ドラえもんを演じていた 富田耕生はどうなったのだろうか? 実は、テレビ朝日版のドラえもんで1年目にエキストラとして出演した後、1982年の プロゴルファー猿の2時間スペシャルに出演した。 1985年からスタートしたプロゴルファー猿では、レギュラーの 「おっちゃん」役で三年間出演している。 「初代ドラえもん」の雑学まとめ 初代ドラえもんの声はおじさんだったという雑学や、 日本テレビ版ドラえもんにまつわる話をご紹介した。 日本テレビ版ドラえもんに関しては、 放送終了時の顛末や権利関係のややこしい問題が残っている。 そのため、日本テレビ版ドラえもんを見ることは不可能に近い状況だ。 決して、不人気で打ち切りになった作品ではないようだが、情報も錯綜しており 何が本当なのかわからない点が多い。 当時はドラえもんの原作自体のストックが少なかったこともあり、もし放送が続いていたらアニメはオリジナル中心の話になっていた可能性が高いという。 その場合は、野沢雅子の声がドラえもんの声として視聴者の印象に強く残ったのだろう。 しかし、もし声優の交代が行われず、 おじさんの声のままだったらドラえもんはどうなっていたのだろう。

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大山のぶ代の現在2019年の今は?死去してるの噂が出た理由は?

大山 のぶ代

大山のぶ代の現在は?認知症?老人ホームに入所中? 大山のぶ代さんは現在どのように生活しているのでしょうか?まずは生年月日や年齢、出身地など、彼女の簡単なプロフィールからご覧ください。 大山のぶ代のプロフィール!現在の年齢は?• 本名:山下 羨代(やました のぶよ)(旧姓:大山)• 愛称・あだ名 ペコ• 出生地:東京府東京市渋谷区(現:東京都渋谷区)• 生年月日:1933年10月16日(86歳)• 血液型:O型• 身長:162 cm 大山のぶ代さんは現在年齢86歳、ドラえもん声優として大変有名です。 幼い頃から特徴な声を理由に虐められることが多く引っ込み思案でした。 母からは「黙ってばかりでは弱くなる一方だから声を出してハキハキ喋りなさい」と言われていたそうです。 中学生の時に放送研究部に入ってアナウンスをしたりラジオドラマを作って流したりと、 その時から声優の道への片鱗が見えていました。 演劇部にも入部しており、母の死で一時部活はやめていましたが、その後演劇の道へ進んでいます。 このことは診断後しばらく公にはされていませんでした。 しかし2015年5月13日、TBSラジオ「大沢悠里のゆうゆうワイド」へゲスト出演した旦那の砂川啓介により、大山のぶ代さんが現在認知症で闘病中であることを公表しました。 この時大山のぶ代さんの年齢は81歳。 認知症と診断されたときは79歳ごろだったとみられています。 そして2015年、砂川さんは認知症を発症した妻との生活の記録を本にして出版しています。 ドラえもんだった自分を忘れてしまった妻、大山のぶ代と、 妻の介護に徐々に追いつめられる夫、砂川啓介。 おしどり夫婦と呼ばれた2人の日々は、今も昔も困難の連続だった……。 全国460万人以上の認知症患者とその家族へ綴る、老老介護の壮絶秘話! (引用:Amazon) 『娘になった妻、のぶ代へ 大山のぶ代「認知症」介護日記 』というタイトルの本で、認知症になった妻との生活がリアルに記録されています。 2008年4月心筋梗塞と脳梗塞を併発していた! 実は大山のぶ代さん、2008年4月24日に心筋梗塞とと脳梗塞を併発して緊急入院していました。 大山のぶ代さんは音響芸術専門学校の校長室で授業準備中に倒れ、緊急搬送、投薬治療を行った末同年の8月17日に退院。 自宅療養とリハビリで日常生活に問題ないほど回復、その後活動を再開しています。 大山のぶ代は現在老人ホームに入所している? 大山のぶ代さんは現在老人ホームに入所しています。 老人ホームに入所したのは2016年4月から、旦那の砂川啓介さんが尿管癌の治療に専念するためでした。 老人ホーム入所前は、夫妻のマネージャーをしている小林明子さんや家政婦の方、砂川さんで大山のぶ代さんの介護をしていました。 大山のぶ代の死亡説とは? 大山のぶ代さんには死亡説があります。 これは、大山さんが認知症であることや、心筋梗塞と脳梗塞を併発した過去があること、さらには旦那さんである砂川さんが亡くなってしまったことから生まれた噂です。 旦那さんが死亡したときに、話がこんがらがり「大山のぶ代さん死亡」と勘違いしてしまった人がネットに発信してしまったのでしょう。 大山のぶ代の旦那が死去!当時の様子は? 大山のぶ代さんの旦那である、砂川啓介さんが亡くなったときの様子について見ていきましょう。 2017年7月、大山のぶ代の旦那・砂川啓介が亡くなる 2017年7月11日早朝、大山のぶ代さんの旦那・砂川啓介さんがお亡くなりになりました。 砂川さんと大山のぶ代さんの出会いは1963年。 結婚から約53年の月日を共にしていました。 夫の砂川啓介とは1963年(昭和38年)8月に舞台『孫悟空』での共演で知り合い、翌年2月に結婚した(結婚式は赤坂プリンスホテルで行われた) (引用:Wikipedia) 砂川さんが亡くなったのは80歳の時でした。 生前自分が「ペコ(のぶ代さん)より早く逝ったら、葬式はしないでほしい」と言葉を残していました。 そのため、近親者のみでの葬儀が執り行われました。 大山のぶ代は旦那の通夜と葬式を欠席 大山のぶ代さんは旦那さんの葬式の喪主を務めています。 しかし、通夜と葬式には出席しませんでした。 死後数日後に棺の中の砂川さんと対面していますが、大山のぶ代さんは「お父さん…」と言葉をかけ涙を流したようです。 しかしすぐに出口に向かいその場を去ってしまったとのことでした。 旦那・砂川啓介の死因は? 砂川さんは、亡くなる以前から尿管癌の治療をしていましたが2017年5月に入院。 その後退院するも6月13日に脳梗塞で救急搬送され入院しました。 その後容体が急変、再入院から約1ヶ月後に亡くなっています。 そのため、死因は脳梗塞による急変と言えるでしょう。 7月11日に亡くなるまでの間、大山のぶ代さんはマネージャーに連れられてお見舞いをしていましたが臨終の時に立ち会うことはできなかったと言います。 旦那の死後、大山のぶ代の認知症が進行 旦那さんの死後、大山のぶ代さんの認知症は進行しています。 とはいっても認知症は根本的な治療がないため、薬で進行を遅らせることはできますが進行を止めることはできません。 そのため、旦那さんの死後に認知症が進行してるのは当たり前と言えば当たり前なのです。 認知症の症状が原因で旦那さんが亡くなったことを、現在認識しているかどうかはわかりません。 しかし先ほどお伝えした通り、健康面に今のところ問題はないとのことなので、急激な症状の進行はおきていないのでしょう。 現在も旦那さんからプレゼントされたパジャマを着続けているそうです。 大山のぶ代、ドラえもん後の活動は? 大山のぶ代さんと言えばドラえもんですが、ドラえもんの声優を降板したあとはどのようなお仕事をされていたのでしょうか? 大山のぶ代のドラえもんから水田わさびのドラえもんに 大山のぶ代さんは、初代の富田耕生さんを2代目の野沢雅子さんから引継ぎ、1979年4月からドラえもんの声優を担当しています。 そして2005年3月まで、26年もの間ドラえもんを演じ続けました。 2005年3月25日放送の映画、『ドラえもん のび太のワンニャン時空伝』のCM前のお別れコメントをもってドラえもん役を勇退しています。 その後を引き継いだのは水田わさびさん。 大山のぶ代さんと同じくして、他メインキャストの小原乃梨子(のび太)ら4名が勇退しています。 大山のぶ代はドラえもん降板を知らなかった? 実は大山のぶ代さんがドラえもんの降板を知らなかったという噂があります。 しかしこれは全くの嘘で、自宅に記者に押し入られ欠けた時に取られた表情に「アッ、と驚く大山のぶ代」というタイトルの記事に次のような内容が書かれていたのです。 『あまりに唐突な交代劇に旧声優人からは不満の声が…』• 『ドラえもんを担当したのぶ代も、いまだに怒っているのです。 』 などといったものでした。 これはもちろん嘘の記事であり、実際には降板の1年ほど前から声優交代の話し合いが行われていたそうです。 「役者の死亡での交代は避けたい」と、大山さん自身も最悪だと思う状態は避けたいと考えていたそうで、26年という区切りに引退という選択をとったのです。 ゲーム・アニメ『ダンガンロンパ』でモノクマの声優に!.

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初代ドラえもんの声優は誰?大山のぶ代でも水田わさびでもなく…?

大山 のぶ代

涙と笑いのドラえもん声優26年うちあけ話。 ドラえもんの声を演じ続けて26年。 2005年の声優交代の直後から、とめどなく溢れ出る思いを、約1年かけ、自ら綴った感動秘話。 パイロットフィルムに「一目ぼれ」した出会いの瞬間から、テレビ、映画と怒濤のような大ブームへと走り続けた日々、世界中の人々との出会いや、藤子・F・不二雄先生の思い出など、本人にしか決して語れない、涙と笑いに溢れた、ここだけのうちあけ話が満載。 さらに、自らの生い立ちや、「ドラ声」とからかわれ、くじけた心を勇気に変えてくれた母の言葉。 入院、手術を経て、辞めようと決意する心の動き。 随所に語られる、これからの世代や、若い母親、子どもたちへの温かいまなざし…。 本書は、テレビ放送の黎明期から女優として活躍してきた大山のぶ代さんの、芸能生活50年の節目に書かれた自伝でもあり、その半分以上の間、大山さんのドラえもんといっしょに生きて来た私たちすべての心の奥深くに響く一冊です。 「大山さんはドラえもんをやりながら、日本中の子どもたちのお母さんでもあった。 」(黒柳徹子) 「大山さん。 私たちのドラえもんでいてくださって、本当にありがとうございました。 」(辻村深月).

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